2014年12月
2014年12月29日
年の瀬のテーマに似つかわしくないので、またにして、年末のご挨拶といたします。
いや~(´・ω・`)
何故か今年の夏以降は、公私とも多忙を極めると言う程でもないながら、
やけに時が経つのが早く感じられ、ああ、もう年末かと驚いております。
時間の経過が早いという事は、死に急ぐ事の様でもあり、複雑な心境でもあります。
とあれ、今年は、生まれてから初めてではなく、酒の味を覚えてから初めて、
丸一年間365日24時間、アルコールの一滴たりとも口にしなかった、という
奇跡的・記録的な歳(大袈裟であるが、童子にとっては)でありました。(*・ω・)ノ
飲酒欲求も次第次第に鳴りを潜めて、よほどの事態でもないかぎり、
休火山状態になって、噴煙も沈静化している様子であります。
しかし、災害は忘れた頃にやってくる、の格言通り、
いつ何時、御嶽山の如き大惨事になるやも知れません。
ブログの更新頻度は、「断酒・禁酒」カテゴリーの皆さんに比較すれば怠慢で、
せいぜい週一回やそこらの圧倒的にサボり状態でありましたが、
今の童子の公私の状態で時間捻出できるのは、この程度なのです。
断酒会やAAにも行ってない、というより、行く気がしない、行く時間もない
童子にとっては、唯一効果的な断酒継続のための処方箋は、
・2カ月毎の、たった5分間の受診時間であるが、専門クリニックへの通院。
これは、敬虔なクリスチャンが、教会に行って信仰の絆を強め、
思いを新たにするのと同じミサの役割を演じてくれます。
・断酒ブログを書き続ける事。
これも、敬虔な信徒が毎日(童子は毎日は無理だが)バイブルを開いて、
信仰心を高めるのに匹敵しております。
不遜な童子は、生来、信仰心なる欠けらの一つも持ち合わせておらず、
はなからの無神論者(単なる罰当りだけかも)でありましたが、
こと断酒に限っては、アル中童子教祖が自ら編み出した通院とブログ記録という
酒呑童子断酒教の儀式を信仰しなければ、ここまでの期間の断酒には漕ぎ着きませんでした。
もう余すところ三日で年が変わり、二十二ヵ月の断酒をクリアし、
断酒二年まで、あと二ヵ月まで近づいてまいりました。(☆゚∀゚)
来年も引き続き、五千円(キータッチミスφ(.. ))ではなく、ご声援をお願いいたします。
それでは、皆さん良いお年を!
本日は、目覚めが早く、やけに敬虔なる童子でありました。(。・ω・)ノ゙
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2014年12月23日
以前勤めていた会社で、フィリピンに行く仕事が幾度かありました。
工場は、マニラから車に揺られて小一時間の工業団地。
当時は、(今もか?)マニラは危険地区であると会社の人事総務部は認定しており、
ホテルからの私用なる単独外出は厳禁と指示されていました。
その代り、ホテルは何時もマンダリンオリエンタル。マニラの中心付近だったようだ。
外出の際は必ず会社の車に乗るよう義務付けられていたのである。
携帯電話は未だ普及しておらず、馬鹿でかい無線機を持たされていました。
日本本社から出張してきた社員が万が一の事件にでも巻き込まれたら、
現地法人の社長の立場も危ういという判断だったのであろう。
ただ、その工場の日本人部長は九州出身者(関係ないかな?)のせいか
大酒飲みで、日本からの出張者を首を長くして待っているきらいがありました。
おおっぴらに接待費が使えるからでしょう。
オイルショック前の極めて景気の良い時代で会社も潤っていました。
毎晩、レストランから宴会は開始するのだが、決まって初日は高級日本料理店。
童子逹は、わざわざフィリピンくんだりまで来て、日本料理など
喰いたくないのであるが、彼ら出向者が日本料理にありつきたいからである。
先方が身銭を切るのだから、しかたなく童子逹は従うだけであります。
食事の後は、必ず二次会、三次会まで延々と進みます。
ホテルに辿り着くのは、何時も午前一時近くになる毎日。
それが二日三日と続くと、流石に当時の遊び好きな童子達出張者もくたびれてしまう。
翌日の会議は、先方の部長・課長はうたた寝状態で、仕事はローカルの部下まかせ。
童子達は、出張の身で成果を残して帰る宿務があり、そうは行かない。
眠くとも、二日酔いの頭と体に鞭打って頑張らなければならないのだ。φ(.. )
そうして、ようやく、夕方5時近くなって童子達の仕事も一段落した頃、
部長はむっくりと背伸びをしながら椅子から起きだしてきて、
夜の帳が降りるにつれ、眼光は次第次第に爛々と輝いてくるのであった。
今思えば、とんでもない輩であるが、そんなこんなで会社は回っていたのだ。
以前のブログ記事『いやな夢』の中でちらりと触れておりましたが、
この部長さんは、飲みだすと、実に悪い酒グセの持ち主だったのである。
某有名大学の神学科を卒業して、神父の免状(?)も持っていた人物なのだが、
飲むととたんに神は居なくなり、人物が豹変してしまうのだった。
(人の事は言えないが。。。(´・ω・`))
その種の武勇伝神話が、日本に居る童子達にも聞こえて来ていたのだ。
みんな陰では、”酒飲み神父さん”とか渾名していたようだった。
会社のとある新人が、ある日そのフィリピン工場へ赴任することになり、
日本の空港の待ち会い席で搭乗時間を待っている居る時の事。
酒に酔った見るからにヤクザの男二人が諍い気味になったのを目撃した。
その場は、搭乗アナウンスがタイミング良く入り、何とか収まったそうだ。
ところがである。その知り合いでも何でもなさそうな二人のヤクザが、
どういう神様の思召しの確率なのか、なんと機内で隣り合わせの席になったのだ。
それからの一部始終を、新人は後部の座席で見ていたらしい。
案の上、食事が出て、更にアルコールをやりだすと再び諍いは再燃、
肩が触れたとかなんとかで怒鳴りあいの喧嘩になってしまった。
殴りあい寸前状態になって、酔った男は、もうひとりのヤクザに
事もあろうに、「表に出ろ!」と叫んだというのだ。
流石に言われた方のヤクザも、飛行中の機体から外に出る事はままならず、
あまりの馬鹿馬鹿しさ加減を感じてしまったのか、戦闘気力も失念してしまったらしい。
乗務員が間に入り、二人を離れた席に移動させてトラブルは沈静化したということだ。
そして、翌日、新人は会社に初めて出社し、出迎えてくれた総務担当に、
「昨日の飛行機の中で、ヤクザ同志が喧嘩をしていて。。。」
と話してながら大部屋の奥に眼をやって仰天してしまった。
なんと、昨日の機内で、あの「表に出ろ」といった方のヤクザが、
真面目な顔で生産管理部の部長席に座って執務をこなしていたのだ。
嘘のようなホントの話であるらしい。
童子は、そういう噂話は聞いていたので、最初にマニラに行った時は、
その”酔っ払い神父さん”の部長と対面した時は恐々ものでしたが、あに反して、実に物腰柔らかく、
丁寧で気遣いのある人物で、噂はホントなのかな、と疑ったものである。
しかし、確かに風貌は、笑いが飛べば、ヤクザといわれても仕方ないものがあった。
そして、夜の三軒目にもなれば、次第と目が据わって来て、迫力は頂点に達し、
十八番の長淵剛のRUNを指名して、マイクを延々と握りしめるのであった。(((( ;゚д゚)))
マニラの夜に響いた、ドスの効いた迫力満点のRUNRUNRUN・・・・の歌声が懐かしい。
でも、「神父さん。もう飲みすぎだから”表へ出ろ”」などとは誰も言えなかったのである。(´・ω・`)
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2014年12月15日
実は、この二三ヶ月、ジョギングをサボっておりました。
真夏には、老廃物と共にストレスも噴きだす汗が爽快で、週2回はこなしていたのだが、
ダイエット効果も目に見えて現れて、秋が近づくにつれ肌寒くなってくると、
次第に億劫になって、まあこんなところでいいかと慢心したのが大失敗の元。
2ヶ月前、会社の近くで見つけた激安洋菓子店のクリームケーキを、
毎日ムシャムシャと頬張りながら秋の夜長を過ごしたのがまずかった。
次第次第に電子体重計からも、遠ざかっていたのも更にまずかった。
少しバンドのベルトが苦しくなってきて、そのうちに走りだすからいいや、
と高を括くり、自堕落な生活三昧を二三ヶ月続けていたのです。
先週、いよいよズボンが苦しくなり、これはチョッピリやばいかもと、
朝起きの食事前の最軽量時間帯を見計らって、思い切って体重計に跨がって見れば、
あれ~~!(((( ;゚д゚)))(女学生の如き黄色い声・・・ではないけれど)
折角の夏場のダイエットの効果がすっかり元の黙阿弥状態。
実に4kgも増えてしまっていたのである。
これはいかん。いかんぞよ。寒いとて布団にぬくぬくとくるまっている場合ではない。
意を決して、その日からランニングを開始。
それでも、夏場の訓練の成果があったのか、長いロスタイムにもかかわらず、
100分もの走行に耐えられて、久々に汗を流し体を動かす爽快感を蘇らせたのでした。
そうか。最近、なにか精神的にも活性化が鈍っていたのをぼんやりと
感じていましたが、やはりそうであったか。
体を動かし額に汗せねば、精神も自ずと弛るんでくるものだと、
再認識した童子でありました。
そして、土曜日に第二弾目。
前日は目覚まし時計を2個もセットして、4時に起床。
いつもは、海岸沿い公園のコースを走るのが常道でありましたが、
時間が早いので、ちょっと趣向を変えて、街中を走って見るかと、
地方都市の繁華街を目指して、公園とは反対方向に走ります。
風俗街の建物が林立する周辺の一角を曲がってみれば、
もう4時半なのに、まだ男女の客引きがパラパラ営業している様子。
こんな時間でもまだ頑張って、やってるんだなあ。
東南アジア系の3人組の女性が声をかけてきます。
「おにいさん。寄ってかない。」
とたどたどしい日本語。
”おにいさん”かと気を良くしましたが、
つけ入られては、一大事。
童子は無視して、ストイックなしかめ面に汗を垂らしながら、
それまでのドタ足から一気にピッチを高めて、彼女たちの脇を通り過ぎて行きます。
十数メートルの間隔で、今度は南米系のような貌ちの外国系女性。
「がんばってえ~!」
童子は流石に、にっこりと微笑み、ピースのサインを返し通過します。( ̄∠  ̄ )ノ
50分ほどゆっくりと走り抜けてUターン。
来た同じ道を戻りますが、腕の時計を見やれば、既に5時過ぎ。
さきほどの客引き逹は、5時が定時なのか一斉に姿を消しておりました。
ようやく夜の帳の世界も看板かと幾分の淋しさも感じますが、最後の力を絞ります。
ふと前方に、二人連れが視界に入ります。
手をつないで揺らしながら、仲好し子好しといった雰囲気で語らいつつ、
酔っ払らっての帰りなのでしょう、左右に揺れて歩く姿が見えました。
いいねえ。童子も若いころは・・・φ(.. )
と遠い遠い青春を回想しながら、二人の脊後に迫って行きます。
しかし、近づくにつれ、シルエットがどうも若さを感じさせません。
二人とも中年太りぎみで、背も同じくらいに低いようです。
でも、歳をとってからも、手を繋いで仲良くお帰りとは、羨ましいね。(´・ω・`)
ようやく、暗がりを抜けて追いつく。
二人の横を通り過ぎながら、好奇心で、さっと横眼で観察しました。
え!え!な、な、なんとーΣ(=゚ω゚=;)
二人ともオッサンではないか。しかも年の頃は、四十半ば。
更に、片方の男は、日本語があきらかに外国人のなまり。
見てはいけない何かを見たようで、
折角の爽快感に水を差してくれるような情景でありましたが、
まあ、酒を飲んで殺人を犯す輩などに比べれば、個人の自由で結構かな、
と断酒21ヶ月で、やたらと人格も寛容さを増した童子でありました。
でも、やっぱり、次回からはもう繁華街を走るのは止めにしようと、
アスリート酒呑童子は、不機嫌そうに呟くのでありました。(≡ω≡.)
ピース!
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2014年12月08日
以前の記事『酔っぱらい事故(1)』で、酔過で大怪我をした出来事を羅列しましたが、
実はもう一つ忘れていた事故があったのです。
昨夜湯船の中で、ふと、右手の甲に微かな傷痕が残っているのに気づきました。
そうか忘れておったなあ。と、その日の出来事が鮮烈に脳裏に蘇りました。
その情けない出来事を忘れないように追加記録する次第であります。
当時、童子は、京都東映太秦映画村近くの嵐電沿いに住んでおりました。
三条通りから伸びる家の近くの街道はやたらと狭く、京都バスと市バスが細い道を、
運転手の職人技で、からくも擦れ違って行き来しておりました。
一度、市バスに乗っていて、運転手がハンドルさばきを誤り、
民家の軒をフェンダーミラーで掬くってしまった事故に遭遇した事があります。
その日は、真夏のまっさかりの暑い暑いよく晴れた休日でした。
前夜も遅くまで飲んでおり、昼前に起きたけれど、二日酔いの頭が重くて、
寝起きの酒をやろうにも、昨夜の酒瓶は空っぽになっておりました。
まだこの頃は、家で堂々と朝酒をやるには幾分かの呵責を感じ、
嫁の顔色もそれとなく窺う程の、依存症真っ只中には少々間のある、
多少は人間の理性が残っていた時期でした。
しかし、その日は起きるやいなや、外で飲む算段をし始めていました。
その算段とは、家から数キロ離れた大覚寺の近くの池に、ザリガニ捕りに、
当時まだ幼稚園も行っていない年端の娘を連れ出す事でした。
ザリガニ捕りという名目で、酒を野外で飲むための口実だったわけですね。
自転車の後ろに幼少の娘を乗せて、目的の大覚寺へと向かいますが、
自宅から出発すれば、忽ち妻の監視の目も無くなって、
まずは、家を出て一番近い酒屋に向かい、一杯ひっかけます。
行く先々の酒屋や自販機を梯子しながら、小一時間程度の道程でありました。
ようやく、ザリガニ釣りでにぎわう池に到着した時には、
すでに数本のビールやらなにやらを空けておりました。
途中で酒の肴に仕入れた、スルメの欠片を糸に結わえて池に垂らせば、
ザリガニさんは大好物と見えて、次々に釣果は上がって行きます。
童子もザリガニ同様、スルメを齧りながら、アルコールもたらふく浴びて、
2-3時間遊んでおりましたが、酒も無くなり、娘も飽きてきました。
ザリガニ釣りに本当に行ってきたんだという証拠品として、
釣った獲物の中の数匹の威勢の良いやつだけをビニール袋に入れて、
いざ家路に向かおうとしました。
しかし、行きは良い良い帰りは怖いとはこの日の事でした。
酔いが回って、よろよろと、歩道もない狭い街道をペダルを漕いでいた時、
後ろから、突然クラクションが二度三度けたたましく鳴りました。
振り返ると京都バスが嵐山帰りの観光客を満載して近づいて来ております。
見れば、前方には道に張り出したコンクリートの電柱が行く手を阻んでおります。
電柱の右側を回って進もうとしましたが、バスが近づき接触しそうな危険を感じ、
止まって行き過ごせば良いのですが、酔いで横着になっていたのか、
電柱の左側の民家の塀との狭い隙間をなんとか抜け切ろうとしたのです。
しかし隙間を抜ける時によろけ、ハンドルを握った右手にズキッと痛みが走った瞬間、
目の前があっと言う間に真赤な景色に染まったのです。(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?
何が起こったのが良く理解できず、慌てて自転車を止め、眼鏡を外して見れば、
電柱に看板か何かを止めてあった金具の鋭い先端がはみ出しており、
それを右手の甲にひっかけた事がわかりました。
結構太い動脈を損傷したらしく、酒で血の巡りが良くなっていたのが手伝って、
噴水の如く噴き出した血液をまともに顔面に浴びたのでした。
メガネに着いた血を拭ってようやく事態が飲みこめたのです。
右手の甲からは、びっくりする程の勢いで血が噴き出しています。
動揺した童子は、とにかく救急車だと思いましたが、携帯電話の無い時代の事です。
公衆電話を捜そうとしましたが、見当たりません。
前方に目を凝らすと、数十メートル先に太秦警察署(今は右京署らしい)の表示板。
やっ。助かった。これだこれだ。(´▽`) さすが、市民の味方。(こういう時だけ神頼み)
自転車を警察署の入口に勢いよく止め、異様な事態に泣き始めた娘を抱えて、
正面のドアを思い切り開けて、走って入り込んでゆきました。
娘の顔や衣服も返り血を浴びて、赤く染まっておりました。
「すみません。救急車を・・・」と言おうとする前に、
正面玄関から走り込んで来た血だらけの男と
これまた血だらけの泣き叫ぶ幼児に、ただならぬ気配を感じて、
居合わせた警察官たちは、非常事態が発生したと勘違いしたのか、
腰に手をやり、臨戦態勢の構えを見せたように感じました。
ヤ、ヤバい!(; ̄Д ̄)
「いや、いや、違うんです。事件じゃあありません。怪我をしただけです。」
酒臭いけれど、犯罪者ではないことを説明するのに一苦労した記憶があります。
やっと状況を理解した警察官が、黒い受話器で119番を回してくれました。
しかし、その日は事故多発日であったのか、すぐ近くに消防署もあったはずですが、
なぜか出払っていて、ちょっと時間がかかりそうだと告げられます。
子供好きな気の良さそうな警官が、娘をあやしてくれ、やっと泣きやみました。
差し出された丸椅子に坐って待つ間も、ドクドクと血流は止まる事無く、
警察官が救急箱から取り出してくれた特大の脱脂綿も、
あっという間にズクズクの状態になってしまいます。
気の弱い童子は、もしかして失血死ってこんな状態の事では、と考えが過り、
ザリガニを取り出したビニール袋に脱脂綿ごと手を突っ込み、うなだれておりました。(T_T)
今思えば、警察の廊下は、血糊と蠢くザリガニで顰蹙ものだったのかなあ。
もうこのまま、警察署であの世に行くのかなあなどと思案しつつ、
10分も20分も経ったように感じた時、ようやく救急車が到着し、
白い服を着た隊員が近づいてきて、童子の状況を一目見るや、
「だめじゃないか!手を挙げろ!」と、
うなだれて椅子の下に左手で庇っていた右手を頭の上に持って行かされました。
ホールドアップの状態です。
(「いや、犯罪者ではないのです。」と言おうとしたとき)
「心臓より高い位置に傷口を持って行かないと、血は止まらないんだよ。」
と救急隊員。
隣で見ていた警察官逹が、「な~るほど」と大きく感嘆の声を挙げました。w(゚o゚)w
ドアホ!(゚皿゚メ)
警察官にも、射撃訓練や逮捕術だけでなく、初歩的な人命救助の教育をさせろ!
と怒った記憶が蘇りました。
結局、救急車で搬送され、病院で10針も縫う大怪我でありました。
それ以降、数十年の人生において、いくら酔っ払ってヘベロケになろうと、
電柱と塀の隙間だけには二度と近寄らない童子でありました。(´・ω・`)
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2014年12月02日
今年も、あっという間に師走になってしまいましたね。
童子は、歳も考えずにアホガキのように薄着でいたのが祟ったのか、
熱が出て土日月と早めに床に入り休んでおりました。
さて、前回の記事でコメントがあり回答しようとしましたが、
ふと、昔日の光景を思い出し、少々長くなりそうなので、
ブログ記事にいたしました。(ホントはネタ切れ(・◇・)ゞ)
質問の趣旨の一つは、アルコール依存症なのかどうか、
という事かも知れませんが、それは童子にはわかりません。
何せ、童子自身がアルコール依存と認識できたのも、
数十年間浴びるように飲んで問題を巻き起こして来たにもかかわらず、
ごくごく最近の事なんですから。
酒呑童子が最初に医師から依存症と診断されたのが、
コメント頂いた方と同じ30半ば位の仕事に脂の乗り切った最盛期。
結婚して以降、大酒を飲む習慣は変化することはなく、
一層、磨き(?)がかかって行きました。 (((\(@v@)/)))
自分では、確かに飲んだくれてはいましたので、
流石に、単なる大酒のみであるとは認めていたものの、
よもやアル中であるという認識はさらさらありませんでした。
身内から指摘されて、アルコール依存症の書物などを読んでも、
幻覚など見るわけでもなく、”アル中”のイメージには、
ほど遠いものだと信じておりました。ヽ(lll´∀`lll)ノ
今思えば、他人から見れば次第次第に悪化して行ったのでしょうが、
本人には、そういった自覚は全くありませんでした。
否認とかではなく、気づかない、そんな病なんですね。
当時、そんな夫の酒から来るとんでもない常軌を逸した言動に、
前妻は、結婚数年もすると、いよいよ耐えかねていたのでしょう。
夫に意見しても埒が明かず、義母や義祖母に助けを求めたのでしょう。
直接、妻側の家族から、酒を控えるように幾度か忠告がありました。
その時だけは二つ返事で、実直に反省した素振りを見せて、
「はい。はい。わかりました。今後、気をつけます。」
と真面目に答えるのですが、そんなもので酒が止まる筈がありません。(´・ω・`)
暫くすれば、すぐにまた酒浸りの事件や事故だらけの生活に舞い戻り。
とうとう妻側の親族から、童子の両親へも直訴がなされた様子で、
双方の家族から専門病院への診察を懇願される事になります。
当時、京都に住んでおりました。
妻の実家は代々京都で、地の知り合いから情報を得てきて、
伏見にアルコール専門の良い心療内科があるから診てもらいなさい。
と勝手に予約も入れられました。
まあ、しょうがないなあ。とりあえず見てもらうかってなもんで、
嫌々ながら、土曜日に妻と医院の門を叩くことになりました。
医院に着く早々、テストのような問診票に記入させられた記憶があります。
おそらくは、久里浜式のテストだったのでしょう。
結果は、見事合格でありました。
問診票の内容は、ほとんど覚えておりませんが、
「こんな設問なら、酒呑みはみんなアル中ではないか。
診察料を稼ぎたいからではないのかなあ。」
と、てんで信用しておりませんでした。
医師からは、生まれてからの経緯を根掘り葉掘り聞かれて、
「学歴もあるのに、もったいない事ですね。」
と、軽蔑気味に言われ、なおさら「このヤブ医者が。。。」
と内心怒りが込み上げたシーンは今でも思い出します。(#`皿´)
それ以来、後にアルコール専門病院に入院するはめになる、
15年位は、この手の医院に行くことはありませんでした。
今でも、ふと、きっちり断酒しようとすればできているので、
ちょっと位飲んでも大丈夫ではないんだろうか、
とダークサイド側の脳裏に悪魔の微かな囁きも過りますが、
ライトサイド側の理性がからくも飲んだら止まれなくなるぞ、
というブログで叩き込んでいる記憶がかろうじて支えているのです。
童子は、アルコール依存症を自覚したから酒を止める決心をしたのではありません。
このまま酒を飲み続けて終る一生の虚しさを想像して見て、
後悔が残らないかを自問した時に初めて酒を断つ気になったのです。
だから若い頃は、こういう発想には決して行きつく事がなかったのです。
アルコール依存症者の平均寿命を通り過ぎて、
会社生活の終わりも見えて来た頃、ようやく、こういう思いに駆られたのでした。
血反吐を流しながらも、なんとか悪運強く生き延びていたから
リベンジの光りが幽かでも見えたから止められたのです。(今のところは。)
童子のような検体は、案外例外であるような気がします。
爬虫類の如く、人一倍生命力と蘇生力が強く、魔物の如く、悪運が強かったためでしょうか。
であるからして、若ければ若い程、出来るならば早くやめるべきですが、
個人個人の断酒のモチベーションは人それぞれの環境生い立ちによる所が多いと思います。
なかなかこの病気は一筋縄にはゆかないもの。φ(.. )
やっぱり、断酒コンサルタントの領域には、まだまだ及びませぬ。
すみませんm(__)m
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